青山学院大学ワークショップデザイナー育成プログラムで苅宿俊文先生が担当される回では毎回、カタルタを使っていただいていると、かねてよりユーザー様から耳にしておりました。
昨年11月、念願叶って青学WSDにオブザーバーとして参加させていただきました。まだ記事にできていないかったため、遅ればせながらそのときのことを書いておきたいと思います。
実際にどのような内容・手順で使われたかについては、この記事では触れません。参加される方がその講座の文脈の中で体験されるのがよろしいのではないか、と今回特に思うのです。
コロナの影響を受け、プログラムの再構築がなされるようですので、今後のカタルタの利用についてはどうなっていくのかわかりません。しかし、振り返っておくことの価値は失われないものと思います。なぜなら、個人的に感じ入ったのは、カタルタを使うタイミングという本質的な部分だったからです。
何しろ定評のあるワークショップデザインのプログラムです。最適なタイミングで適量の活用をされていると感じました。リラックスしていて活発でとてもいい雰囲気なんです。少し俯瞰すると、補講含めて全13回のプログラムの中の最初から数えて2番目の日と、最後から数えて2番目の日にカタルタは使われていました。今回、その後者に参加させていただいたのですが、場自体の感想としては、情熱とギフトのシャワーを浴びたような時間でした。
これは勝手な推察ですが、一連の学びの流れがある中で、その内容が深まっていくキワと、活躍を期待されて社会にワークショップデザイナーとして送り出されようとするキワのところでカタルタが活用されているようにお見受けしました。
一番最初と最後は全体のプログラムにとって特別な役割を持つ時間になるでしょうから、そこからちょうどよいくらいに離れたタイミングでカタルタを活用いただいているように感じました。
学びの場が、知っていることと知らないことが結びつき、血肉となっていくためのテコだとすると、そのテコの支点には、参加者自身の思考があるはずです。
カタルタの体験は、多くの場合、考えがぐるぐると巡るものになるでしょう。意図的に混沌を作り出すことで、別様であり得ることの可能性が常に示される。そんな側面があります。参加者はその混沌から何を選び出し、自分の考えとして採用していくかが問われます。混沌にどのような役割を期待するかという視点で捉えると、プログラム全体にとってどのタイミングでカタルタを使うのが望ましいかが見えてきそうです。
カタルタを使う時間だけがプログラム全体から切り離されて体験を形づくるのではありません。青学WSDの社会における役割、時代の流れの中での役割が丁寧に語られていたからこそ、この点が際立って印象に残りました。全体を活かす部分。部分を活かす全体。その関係が成り立つためのルールメイキングとはどのようなものになるのでしょうか。そんな問いが残りました。
ご厚意により貴重な場に参加させていただき、苅宿先生とスタッフの皆様に心より感謝いたします。