今、コロナで前提がひっくり返ってしまって、いろんなことがわからなくなっています。特に、人の事情はわかりません。人の痛みは本当の意味ではわかりえない。だからもっとずっと前の段階でやれることをやるしかないのではないか。今またそう思いますが、人生のある時点でもやはりそう考えたことがありました。だからこそ、ツールから使い方もテーマも一旦取り去ってしまって、その人なりの事情を汲んだ使い方ができるように用途を開いた。それがカタルタというツールです。
乱暴に言ってしまうと、人は関心があればほうっておいてもわかろうとします。自らの力でわかっていきます。しかし、コロナでこれだけ多くの“わからなさ”に直面すると混乱するのが当然で、思考停止に陥ったり、自信をなくしたり、自暴自棄になったりということも出てくるでしょう。自分に言い聞かせるように書いているところもありますが、不安になりすぎたり、不信感に支配されるのでは、いかにも不健康です。だからこう考えてみるのです。
“わからなくなる練習”が必要な時代に突入したのでは?
どのみち、わかってもわかってもその先にわからなさが待っているのだから、反対に自らの力でわからなくなっていくという態度が試される時が来たのではないか。最速で前提を疑う。あるいはゆっくりと前提を疑う。わからなさを歓迎し、言語的な操作によって直接、認識を書き換えていく。そんなある種の実験を支える道具としてカタルタを今ふたたび位置付けるなら、“わからなくなるためのカードセット”と言えるのではないか。
先日販売を開始したカタルタ#17ライフと#18エモーションも、まさに”わからなくなるためのカードセット”です。興味や関心はわかっていくことの燃料になりますが、大抵はわからなくなるのと同時にしぼみ、忘れられていきます。しかしこれらのカードで目指したのは、“興味を携えたまま、関心を深めながら、わからなくなっていく”、そんな体験が何度でも再現することです。人生と感情を言語化する一助となれば幸いです。